・1976年3月27日生まれ
・滋賀県生まれ 千葉 アメリカ育ち(16歳〜20歳まで)
現在東京在住
・身長 173cm
・体重 80kg
・趣味 パソコン・ギター
・仕事 ITエンジニア兼投資家
・家族 もうすぐ4歳になる、かわいい娘と妻
1976年 普通のサラリーマンの家に生まれます。
滋賀はただ母の実家で生まれただけで
生後一ヶ月で千葉へ引越し
滋賀へは毎年お盆と正月に帰省するだけでした。
最初は,どこにでもある普通のサラリーマン家庭だったのですが
私が小学校4年生の時に突然
父が脱サラをして地元で婦人服店を開業。
今まで専業主婦だった母もその手伝いの為、家にいないのが
当たり前になり鍵を渡されました。
いわゆる鍵っ子ってやつですね。
あの時はほんとに悲しいと言うか寂しいというか今まで当たり前だった
「ただいま」
「おかえり」
と以前は当たり前だった挨拶が突然消えたのがショックでした。
そんな日々の、唯一の心の支えはほぼ毎日遊んでいた
近所の幼馴染、アメリカ人のジョン君の存在でした。
彼はホームスクール(自宅で資格をもった親が教えるという学校)
をしていたせいか友達もほとんどいないので、私が学校から帰ると
ずっと一緒に遊び英語や日本語で
色んな話しをしていました。
しかし、そんな日々も長くは続かず、私が中学3年生になった
ある日ジョン君はアメリカへ帰国してしまいました。
その後残された私はずっとアメリカに行きたい。
どうにかしていく方法はないだろうかと考えていました。
普通に高校に入ったものの、まともな英語の授業は始まらず
中学の復習から始まり、高校3年生の先輩にも
英語の教科書を見せてもらったが当時日常会話程度の
英語ができた私には学校での勉強にそれほど魅力を感じず、
わずか3ヶ月弱で高校を中退しました。
もちろんアメリカに行くために。
高校を中退した後、最低でも準備に数か月は
かかるとは思っていたのでバイトを探しましたが、
高校中退のしかも当時まだ15歳だった私を
雇ってくれるところはなかなかなく仕事を探すのも苦労しました。
やっと見つけたのは喫茶店の仕事でした。
当時としてもかなり安い時給630円・・・
しかも仕事は超きつい。朝6時半から夜10時半まで
16時間労働は当たり前。
しかも通勤に1時間かかります。
さらに2月なのに28日も働いてました。当然うるう年ではありません。
殺人的な労働時間のおかげで給料は30万円を超える月もありました。
(今思い出してもつらいので、あんまり計算したくはありませんw)
ビザの申請の方は、業者をはさまず個人でしていた為、
「書式が違います」
「ここにサインがありません」
等のやり取りを何度もやり結局1年半ほどかかりましたが無事取得。
仕事を辞める頃には人数が増え殺人的な忙しさではなくなりましたし、
元々アメリカに行くまでとの約束だったので円満に辞めました。
そして渡米。
ジョージア州の田舎の高校に入りました。
日本人は一人もいない環境。
そこそこ英語ができると思ってたのは勘違いだったと気づかされる日々。
大統領制の仕組みやゾウリムシの毛の部分を何々と呼びます等々、
「そんなの日本語でも知らないよ」
と言いたくなる話をいきなり英語で学びます。
ついていくのに必死です。
やっと16時間労働から解放されたと思ったのに
やっぱり16時間以上勉強していました。
そんな日々を一年半ほど過ごすと家での勉強をほとんどしなくても
授業も全く問題なくなりました。
それからは家での勉強は最低限にして友達とバンドをやりほんとに
毎日夜遅くまでギターの練習をしました。
どうやらとことんまでやってしまうのは性格のようです(笑)
しかし楽しいアメリカでの生活も高校も終わり
ビザの期限切れの為に日本に帰国。
世は不況の1997年、仕事を探すのにもまた苦労します。
きっと東京で探せば全く問題なかったんだと今は思いますが当時は
そんな考えはなく英語を使う仕事を実家(千葉)近くで探していた。
まあそんな仕事が千葉にたくさんあるわけもなくいつまでも
プラプラしていられないのでとりあえずデパートの食品売り場でバイトを始めました。
そこで出会った女性と交際。
若かったのもあるが勢いで結婚。
子供も一人できますが、今まで友人だと思っていた
シンガポール人に騙されたり、仕事も安定せずお金がなくなり
お互いの実家に帰るはめに
どんなに頑張っても毎月の給料は20万円ちょっと。
その大部分を妻に渡し、その残りから、家族3人で住む為の引っ越し費用を貯金して、
さらにとことんまで切り詰めたが新居を借りる費用にはほど遠く
そのまま1年程過ぎた時に相手から
「離婚する」
と言われました。
ほんとに惨めでした・・・
当時息子は2歳になるかならないかくらいで
最後に会った時の別れ際,自転車に乗せると大声で泣いてました。
子供にもきっと何かわかってたのでしょうね。
お別れを言うとさらに泣き、自転車が走り出しても泣き続け、
姿が見えなくなってもずっと泣き声だけが聞こえていました。
(今思い出しても涙が出そうになります。)
その時本気でお金持ちになりたいと思いましたが
どうすればいいのかわかりませんでした。
いろんな仕事をしました。
警備員の仕事もしましたし、それこそ底辺と言っては
失礼かもしれないけれどもそれに近い仕事もかなりやりました。
ネットワークビジネスも2社経験しました。
1社は耐久商材で元を回収した程度で終わってしましましたが、
2社目の健康食品の会社では講師にまでになりました。
順調に会員を増やし、私の収入もドンドン増えて行ったのですが、
別の講師が薬事法違反で逮捕され、社長と副社長は事情聴取。
会社はその商品自体を扱えなくなりました。
と同時に増えていた私の収入も無くなりました。
そろそろ本業にしようかと思っていたところだったので
非常にショックでした。
でもそこで立ち止まっていはいられません。
その後、好きだった趣味のパソコンスキルを生かし
パソコンショップでの販売の仕事を派遣で始めました。
これが性に合ったのかすごく楽しく元々とことんやってしまう性格だった為に、
自宅にサーバーまで構築するくらいになり、秋葉原のPCショップで
店員をしいても知識が飛びぬける程になりました。
(この頃はもう英語を使って仕事を探す事は止め普通に探して東京で働いていました)
ただ派遣というのは派遣期間があったりと、かなり不安定で
1年に5回勤務先が変わる年がありました。
その仕事が変わる間20日空いたり、1カ月空いたりして最初のうちは
貯金を取り崩しながらも生活はできたのですが、それでは追いつかなくなり、
終いには借金までする生活になりました。月に10万円も手取りが減ったのが
2か月続いたところに家賃の更新1カ月分、さらに借金の返済、養育費。
ほんとに死にそうになりました。
そんな生活の中、ロバートキヨサキの著書
『金持ち父さん貧乏父さん』を同僚に勧められ
「これだー!!!」
と思いました
それからは不動産屋さんを何件も回りましたが
「派遣?」
「それだと融資がまず下りないね〜」
とあっさりと断られます。
どうしたらいいんだろうと考えた末、
遠回りになるかもしれないがまずは社員になろうと思ったその頃に
秋葉原にカナダ人の彼女を連れた日本人男性が彼女のパソコンを探しにきました。
彼は何度か話すと突然
「なんでそんなに英語力あるのに、こんなところで働いているの?」
と、自分が働いている職場をこんなところとずけずけ言う彼が言うには
英語の仕事を探すには方法があるという。
彼の言う方法に従って探すとほんとにいろんな英語とパソコンのスキルを
生かせる仕事があり、転職を決意しました。
転職すると突然年収が以前の倍近くになり借金の返済も進んできました。
借金の返済が終わり、2度目の転職をした先で出会った女性と結婚しました。
子供も生まれ貯金も増え勤続年数3年目に入った一昨年、
株の儲けを頭金にして一棟アパートを購入し
不動産投資家としての生活もスタートしました。
投資家として、まだまだ勉強中ですが、不動産投資も順調に推移し、
投資からの収入が、サラリーマン年収を
超え2012.3月末日をもってサラリーマンを引退致しました。
ここまでの道のりは大変だったけど、今振り返ると、
絶妙なタイミングでいろんな出会いがあり
人生ってほんとよくできてるなと思います。
その出会いは本だったり、人だったり様々ですが
今まで出会ったすべての出来事に
感謝したい気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
投資家あおやま
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